まだ心は此処に在るので


 歌なんて唄えば、何か伝わるなんて思っていたのだろうか。
もしも、そうだとするのなら、なんてちっぽけで壮大な野望だったんだろう。



まだ心は此処に在るので


 都心にほど近いマンションに窓硝子にミラーが張り巡らされたバンが横付けされる。一般家庭が好んで購入するものよりも僅かに排気量の大きなそれは、しかし、確かな運転技術にも係わらず、運送を生業とする者達の車でも無いようだった。
 派手な宣伝が側面に描かれていないのもそうだが、質素に目立たないように努めている事が感じられるベージュの車体や標準装備から外れない仕様がそれを感じさせる。けれども、ナンバープレートは特殊車両と呼ばれる領域だった。
 使用目的が曖昧な車は、静かなエンジン音を響かせて停車している。
助手席に座っていた男は暫く周囲を観察していたが、携帯を取りだして二、三言を発してから背後に移動する。
 横側にパックリと扉が開いた車に滑り込むように入って来た男は、動き出した車両の中で付けていたサングラスを外した。

「ごめんね、僕もう辞めちゃったのに我が侭お願いして。」
「構いませんよ、ガリュウ。」
 交差点を曲りながら、運転している男が応じる。
「七年の間マネージャーを努め上げたんですから、私も戦友みたいなものですよ。」
 そう告げてクスクスと笑った。中年というよりはまだ歳若いものの、一連の騒動が彼のに疲労を深く刻んでいる。今、迷惑をかけているだけではない陳謝の気持ち浮かぶ。未成年の頃から、引率の先生のように自分達を導いてくれたのは彼だ。そうして苦労して育ててくれた『ガリュー・ウェーブ』を解散すると決めたのは響也自身だった。
「ごめん。」
 響也は労うように、元マネージャーの肩をポンポンと叩いた。扉を閉めてから、響也の横にいたもう一人の男は驚いたように笑った。
「遠慮なんて、ガリュウらしくもないですよ。」
「オイオイ、酷いなそれ。僕はそんなに我が侭だったかい?」
「アナタが我が侭だったからこそ、ミリオンヒットを飛ばすグループになったんですよ。」
「ちょっと待ってよ。僕が我が侭だったって事、否定してないじゃないか。」
 むうと頬を膨らませる響也に、男達は屈託のない笑いを返す。
ほんの少し前までは、この車の中で当たり前の光景だった事を思い出し、響也の気分は僅かに沈んだ。
 それでも、解散は響也が言い出したとは言え、皆が納得の上で決めた事だった。グループのメンバーが警察関係者だった事もあり、反対した者はいない。
 ダイアンが起訴されてすぐに決まったような話だったのが、半年以上伸びたのは、偏に契約していた仕事が残っていたせいだ。

「あ、ここら辺りでいいよ。後は歩いていくから。」
「車で横付け…じゃあないんですね。」
 昔の所作を思い出し、そう聞いた男に響也は笑った。
「だって、愛車が自転車だから。それで二人乗りをしてたら、別の意味で目立っちゃうよ。」
 肩を竦めて笑う。随分と質素な相手とつき合ってるんですねぇと感心され、普通にシロウトだもんと響也が返す。

 大通りを曲がり一方通行だらけの道に入り込んでから、車は止まった。報道の車は付いて来ていませんよ。と告げてから扉を開ける。
「ヘマをしないようにして下さいよ。」
 昔と変わらぬ注意の言葉に懐かしさが込み上げる。胸が少しだけ後悔に軋むけれど、響也は目を眇めてサングラスを掛け直した。
「僕を誰だと思ってるの?」
「ハイハイ。」
 如何にも信用していない軽い返事すら心地良かった。
「いつでも、呼んで下さい。遠慮はガリュウらしくないですよ。」
 扉を閉める寸でに告げられた言葉は、まるで心を見透かされているようで、立ち去らなければならない路上から、なかなか脚を上げる事が出来なかった。


「急に手紙が来て、驚きましたよ。」
 先に部屋に入っていた王泥喜は、入室した響也に唇を尖らせた。
借りてきた猫の様に、二つあるベッドの片方に腰掛けてじっとしていたらしい彼に響也は少々面食らう。
「そんなに、居心地悪かった?」
 高級と名のつくホテルの一室。
 狭くはない部屋からは、都内が一望出来る大きな窓が広がっていた。部屋に完備されている備品は、使えば金を取られるようなケチくさいものではない。
どれだけ使おうとも全て料金の内。もっともその料金も目玉が飛び出る代物だ。
 眉を八の字にした響也に、額に指を当てた王泥喜が大きな溜息を吐いた。
「じゃなくて、俺にとって身分不相応だって言ってるんですよ。」
「でも、下手なとこだと流出画像が恐いし。そんなに嫌がられるとは思って無かったよ…。」
 ジャケットを脱いで、王泥喜が座っているのと反対のベッドに置く。そのまま、腰掛けようとした響也の手首を王泥喜が引いた。
 中腰の状態だったせいで、響也の身体は恐ろしいほど素直に王泥喜に傾いた。縺れた脚は踏ん張る事もなく、王泥喜を押し倒してベッドに沈める。それでも、上質なベッドは、男二人の体重を嫌な軋み音ひとつせず受け止めた。



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